70th meeting
「世界」
Core Talk Cafe meeting

Digest

コアトークカフェも第70回の節目ということで、「世界」という大きなテーマを取り上げました。

初めのひと言では、「自分が行ったことのない国は実在するのだろうか」「世界一と宇宙一ではどちらが上なのか」「"私の世界"という言い方もあるが、世界はどこにあるのか」「世界地図に未踏地があった頃と無くなった今とで何が変わったのか」といった様々な疑問があがり、また、"世界観"や"(誰々の)世界が狭い・広い"という言葉づかいやタロットカードでの"世界"などの話から、「世界」という言葉が私たちのまわりにありふれていることを確認されました。大別すると、地理的にとらえる「世界」への興味と、"世界観"という言葉にみられるように「つくったり、出会ったり、交差したり」する認識的な「世界」への興味という二つの関心があるようでした。

まずは身近な例として「誰々の世界は狭い・広い」という言葉づかいについて考えました。例えば「君は世界が狭いね」という発言は何を意味しているのか。日常的には「テレビや新聞を見ていないなど、得ている情報量が少ない」や「人付き合いの行動の範囲が狭い」というような意味で理解していますが、地図に「未踏地」の余白があった頃の方が世界は狭かったのでしょうか。むしろ、地理的なことが明らかになったり交通の便がよくなったりしたことで「世界が狭くなった」と言われることもあります。また、神話などで語られる「世界」は地図に書かれる範囲よりもずっと広いのでは、といった宗教上の「世界」の意味にも考察が及びます。「科学的に解明された範囲と宗教を含む精神的な広がりは反比例するのでは」という意見も出ます。

また、最初の「誰々の世界は狭い・広い」の話に戻って、ここでの「世界」の意味は「知っている範囲」なのか「想像しうる範囲」なのか、という問いも出ます。「君は世界が狭いね」と言われるのは、たいてい若輩者に「見識が足りない」とか「感情的な苦労や深い悲しみを知らない」といった意味合いがある場面のようですが、そこで足りなかったり知らなかったりしているのは何なのでしょうか。「世間」や「世の中」といった言葉も出ますが、なかなかつかみどころがありません。「先に言った者勝ちなのでは」という意見すら出ます。また、ここでの「知」は、年齢や経験とともに誰もが年輪のような同心円状に拡大させていけるものと考えてよいのでしょうか。むしろ、「誰もが知っている情報があったのは昔のこと」で、たくさんの円が境界を接したり重なり合ったりするような、広がりも深さも多様で因果関係も複雑になっているというのが私たちの日常的な実感のようです。さらに、「知」の範囲ということになると、いまやコンピューターの方が世界を知っているということになるかもしれません。

ここで、「世界を知らない≒何も知らない、なのでは」という指摘から、「世界」を「全体」ととらえる見方が検討され始めます。先に出された「世界一と宇宙一ではどちらが上なのか」という問いも思い出されます。この議論の土台づくりとして、「世界が一番大きなくくり(カテゴリー)だと思うかどうか」と皆さんの認識を確認すると、賛成派(世界が最大派)と反対派(世界は最大ではない派)は半々くらいでした。このあとはそれぞれどちらの立場かを明確にしながら話していきます。まずは反対派は「世界は頭のなかに映る全部のことで、自分のなかの現象」であり「宇宙の方が外側にある客観的なもの」ということでより大きいと考える方や、視点や言葉のつかい方によって変わるのではという方など、いくぶんスタンスにちがいがあるようでした。賛成派は「世界は宇宙と歴史、空間と時間の全体」という考え方です。ここで「世界」と仮に対比させた言葉は「宇宙」だったのですが、「"私の世界"と"私の宇宙"と言った場合、世界の方には拡張性があるように感じ、宇宙の方には閉じた系という感じがする」という感想もありました。地学的な意味では世界地図で表される地球は宇宙の中にあったり、宇宙膨張説もあったりしますが、それらと逆とも言える感覚が生じているようです。

ここで、賛成派の方から「世界にはどうやったら行けるのだろうか」という疑問が出されました。海外へ行ったら「世界に行った」ことになるのでしょうか。あるいは「世界」へは行けないのでしょうか。このように、「世界はとらえどころがないのに、そこから逃げられないような感じもする」ようです。「五感に映るものが世界なのでは」など、まだまだ模索が続きます。賛成派(世界が最大派)から、「世界は神話のなかでの意味に近く、そこからあらゆるものが切り出されてくる元が世界」という見方が示されると、「アメリカ野球のワールドシリーズは国内だけなのに世界を冠している」など、線引きによって変わってしまう「世界」という言葉の表現上の揺らぎの大きさも改めて指摘されます。さらに、反対派から「世界が最大であるとわかるのはなぜか」「線引きによって変わってしまうということは、"人それぞれ"なのか」「新しい世界や別世界もあるので、最大ではないのでは」という疑問も出ました。ここで賛成派からは「情報は量だけど見方は量ではないので比べられない。新しい世界や別世界というのは、見方の変化という意味合いの方が強いのでは」という考察がなされ、「その人にとっての最大という意味でも世界が最大と言えるのでは」という意見も出ました。

やや議論が煮詰まってきたところで、「世界という言葉に最大などの期待が込められやすいのはなぜか」という疑問が出ます。これに対して「世界は変化の可能性や未知の部分を含んでいるから最大なのでは」という意見が出ます。先に出た"私の世界"と"私の宇宙"のニュアンスの対比が思い出されます。ここから「世界の範囲」についての考察に進みました。「最大、全体としての世界」と「別世界や新世界との出会い」が両立しうるのでしょうか。賛成派から「世界とアンチ世界の線引きができないのが世界なのでは」という意見が出て、「世界には"主観"も含まれているからでは」と考察が進みます。世界地図の余白の話も再登場して、「世界は、描かれた図と、それが書かれている地(紙)のどちらをも指すのでは」という指摘も出ました。まだ描かれていない「白紙」の部分があることで「変化」が可能になり、夢やゲームなどの空想も含む創造が可能になるのでは、という意見も出ます。芸術家の創造は「新しい白紙」をつくることであり、そこがすごい、という感想もありました。

また、「世界」には蓄積としての「過去」とあらゆる可能性がある「未来」も含まれている、というように、時間へも考察が及びます。この「未来」には「世界が無くなる可能性も含まれているのでは」という意見も出ました。ここでまた「世界の範囲」へと関心が集まりました。「自分の世界」と「他者の世界」を分ける「柵あるいは風船のようなものが世界」だけど、互いに知ることができるという意味で「行き来が可能」でもある、ということも言えそうです。また、「世界が無くなる可能性」について、「世界の反対は虚無」という発言が出ます。「世界が"終わる"とか"無くなる"ならわかるけれど、もともと"無い"は想像つかない」という感想もあったように、私たちは「虚無」についても私たちの「居場所」としての「世界」を前提としてしか考えられないようです。この「虚無」のとらえにくさからは「世界にはどうやったら行けるのだろうか」というとらえにくさが連想されます。「虚無」について、「誰からも認知されていないことなのでは」という指摘もありました。この「認知」の話は「居場所」の話にもつながりそうです。「"ここ"も世界であるということはなぜわかるのか」という疑問が出るなど、まだまだ議論は続きそうだったのですが、お時間となってしまいました。

Core Talk Cafe digest

Questions

・「世界」は一番大きなもの?
・「世界」の範囲は?
・「世界」が無い、とは?
Book Guide

Book

『世界はなぜ「ある」のか?:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅』 ジム・ ホルト『世界はなぜ「ある」のか?:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅』 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジム・ ホルト
ハヤカワ・ノンフィクション文庫

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