61st meeting
「名前」
Core Talk Cafe meeting

テーマ選択の背景

一見抽象的なもののように思えて、誰しもが持っている身近な「名前」。人だけでなく「商品名」や「山の名」など、物も名前を持っていますね。自身の名前のように、誰かから与えられたり、人や物の名前を呼んだりして、わたしたちは名前と日々ふれ合っています。見渡す限り、名前はそこら中にあふれているように見えますが、全てのものには名前があるのでしょうか。あなたは、なぜ名前があるのでしょうか。

当日の様子

回も20名以上の方にご参加いただき、大小2グループに分けての対話でしたが、こちらは大グループの方のレポートです。
まず、進行役の「”名前"について思っていることを、ご自分の名前と一緒に自由にお話下さい」という案内から、問いの糸口を探っていきます。それぞれのイメージを一人ずつ交換しながら、みなさんはご自分の名前(しかも名字のみ)だけでなく職業などもお話になりました。この現象も一つの問になりそうになりながらも、今回の対話の大きな軸は「自分の名前について」になりました。
そこで、まずはあだ名などを例に挙げながら、環境や共同体によって名前が違うことがあることが指摘されます。戸籍に登録されている名前は、親が自分に期待したキャラクターの名前であり、あだ名は「こう呼んでほしい」という名前であるという点です。しかしあだ名はそれだけではなく、「人に呼ばれるため」のものです。そこから、名付けられるということは、区別するため、または意味を与えて表現するため、の二種類に分けられるのではないかという整理もされました。名前が「表現する」ためのものであるとすれば、あだ名は共同体から望まれたキャラクターを凝縮したもの、とも言えそうです。そうしてキャラクターに名前がつけられるのか、それとも名前にキャラクターがついてくるのか?という問いにもつながっていきました。名前が自分のアイデンティティと不可分のものであるとすると、「名前を変える」という行為はかなり大きな出来事になりそうです。
そこで、もしそうなのであれば、名前を変えることは可能なのか?という問いをメインに、対話が深まっていきます。もちろん、結婚したりして名字が変えるなど制度上は可能です。しかし、本質的な意味で、「名前が変わった」とはどういう状態なのでしょうか。そして変える能力を誰が持つのでしょうか。ある方は、名前は自分一人で変えることができ、そしてそう名乗ってしまえば変わったと言えるのではないか、という意見を出して下さいました。それに対し、慣れ親しんできた名前が変わってしまった友人のお話を例に、新しい名で呼ぶときに違和感を感じたエピソードを話して下さる方も。さらには、名前とは「呼ばれるもの」なのだから、自分の名前は実は自分のものではなく、他者のものではないだろうか、という意見も出ました。そうすると、名前は自分一人で変えることはできず、他者に「変えられる」ものになるのかもしれません。
残り時間も少なくなる中、対話は名前を変えることができるとすれば、どうやったらできるのか?という問いがぽつりと出されました。それに対し、自分一人だけで名前を変えることはできないし、変える前の名前に親しんでいる親密な共同体では、古い名前と自身が密着し、なおかつ他者にそう記憶されてしまっているため、変えることは難しいが、こっそり名前を自分で変え、初対面の人に名乗れば変えることができる、という話も。しかしながら、それは果たして「変わった」ことになるのか、他者にとっては変わったことにはならないのではないか、という新たな問いが出たところで、時間切れとなりました。
Core Talk Cafe digest

Digest of digest

・名前があるから自分がある?自分があるから名前がある?
・名前は自分で変えられる?
・誰が名前をつける力をもつのか?

Book Guide

『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』 藤川直也 『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』 (勁草書房)
藤川直也
勁草書房

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